Pocket

2025年の世界陸上東京大会で、女子マラソン日本代表として大きな期待が寄せられる小林香菜選手

彼女の経歴は、いわゆるエリート街道とは一線を画す、とってもユニークなものなんです。

「小林香菜選手って、いつから大塚製薬に所属しているの?」

「中学や高校時代は、どれくらい強かったんだろう?」

そんな疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。

この記事では、小林選手が大塚製薬に入部した驚きの経緯から、陸上人生の原点である中学時代、そして試練を乗り越えた高校時代の成績まで、彼女の不屈の歩みを徹底的に解説します!

市民ランナーから世界の舞台へ駆け上がったシンデレラストーリーを、ぜひご覧ください。

 



小林香菜が大塚製薬に入社したのは大学卒業後!自ら道を拓いた行動力

世界陸上2025での活躍が期待される小林香菜選手。

彼女が現在の所属先である大塚製薬陸上競技部に入社したのはいつからなのでしょうか。

その答えは、大学卒業後の2022年4月です。

しかし、多くのトップ選手が経験するような、鳴り物入りのスカウトでの入社ではありませんでした。

なんと彼女は、自らの熱意と驚くべき行動力で、名門実業団への道をこじ開けたのです!

その背景には、常識にとらわれない彼女の強い意志がありました。

では、無名に近い市民ランナーだった彼女は、どのようにして夢への扉を開いたのでしょうか?
「異例の自己PR」から始まった入社の経緯と、彼女が大塚製薬を選んだアツい理由に迫ります。

入社のきっかけは異例の”自己PR”

通常、実業団チームへの加入は、学生時代の実績をもとにスカウトされるのが一般的ですよね。

しかし、小林選手はその「お決まりコース」を辿りませんでした。

大学4年生の時、彼女は「世界で戦える選手になりたい」という強い想いを胸に、自ら行動を起こします。

なんと、大塚製薬陸上競技部を率いる河野匡監督に、大学の先輩を介して連絡を取り、「練習に参加させてください!」と直談判したのです。

当時の彼女は、箱根駅伝を走るようなスター選手ではなく、あくまで一人の「市民ランナー」でした。

実績がなければ門前払いされてもおかしくない状況で、自分の可能性だけを信じてアプローチしたその行動は、まさに異例中の異例と言えるでしょう。

この熱意と覚悟が、名将・河野監督の心を動かし、彼女の運命を大きく変える第一歩となりました。

なぜ名門・大塚製薬を選んだのか?

数ある実業団チームの中で、なぜ彼女は大塚製薬を強く志望したのでしょうか。

その理由は、河野監督の指導方針と、世界を目指せる環境にありました。

小林選手がビビッ!と来たポイントは、主に以下の2つです。

  • 選手一人ひとりの個性を尊重する指導方針
  • 世界を見据えた質の高い練習環境

河野監督は、選手の自主性を重んじ、対話を重ねながら個性を伸ばす指導で知られています。

高校時代の怪我や、大学で陸上サークルを選んだ自身のユニークな経歴を理解し、ポテンシャルを最大限に引き出してくれるのはこの場所しかないと、彼女は確信していたのです。

自分の未来を他人任せにせず、最高の環境を自ら掴み取りにいったその先見性と覚悟こそが、小林香菜選手の最大の強さなのかもしれませんね!

 

▽スポンサーリンク



陸上人生の原点!前橋三中で見せた才能の片鱗

自らの行動力で大塚製薬への道を切り拓いた小林香菜選手。

その不屈の精神と才能の原点は、彼女のキャリアの出発点である中学時代にありました。

彼女が通ったのは、地元群馬県の公立校である前橋市立第三中学校です。

しかし、意外なことに彼女は入学当初から陸上部に所属していたわけではありませんでした。え、そうなの!?って感じですよね。

彼女の陸上人生は、中学2年生の時に訪れたある転機から始まります。
水泳部からの異例の転身と、すぐに頭角を現した中学時代の活躍を見ていきましょう。

水泳部から陸上部へ!中学2年生での転身

小林選手は、中学1年生の時は水泳部に所属していました。

長距離走の才能を見出したのは、陸上部の顧問の先生と友人からの「うちに来ない?」という熱心な誘いがきっかけだったと言われています。

中学2年生で陸上部に転部すると、水泳で培われた心肺能力と持久力を武器に、瞬く間にその才能を開花させていきました。

もともと走ることは好きだったものの、本格的な陸上競技のキャリアは、中学2年生という比較的遅いスタートだったのです。

この転身がなければ、今のマラソンランナー・小林香菜は存在しなかったかもしれず、まさに運命の決断だったと言えるでしょう。

中学3年生でジュニアオリンピック出場!当時の成績は?

陸上部へ転部後、めきめきと力をつけた小林選手は、中学3年生の時に大きな成果を手にします。

全国の舞台であるジュニアオリンピック陸上競技大会に出場し、女子C 3000mで11位という素晴らしい成績を収めたのです。

陸上を本格的に始めて、わずか1年半。

全国の強豪選手が集まる大会で11位という成績を収めたことは、彼女の持つ非凡な才能とポテンシャルをはっきりと証明するものでした。

この輝かしい実績により、彼女の名前は群馬県内だけでなく、関東の陸上関係者にも知られるようになります。

この中学時代の成功が、彼女を次なるステージへと導いていくのです。

 

▽スポンサーリンク



試練の高校時代|度重なる怪我と伸び悩んだ記録

中学時代に全国の舞台を経験し、輝かしい未来が期待された小林香菜選手。

しかし、彼女の高校時代は、順風満帆とは程遠い、試練と苦悩の3年間でした。

中学時代の自己ベストを更新できない日々。その裏には、度重なる大きな怪我との戦いがありました。

でも、この苦しい時期に育まれた「走ることを楽しむ心」こそが、後の彼女の飛躍を支える、何より強固な土台となったのです。

強豪校ではない進路を選んだ理由、そして彼女を襲った試練と、それでも失われなかった陸上への情熱を紐解いていきましょう。

強豪校ではなく早稲田大学本庄高等学院へ進学した理由

中学時代の実績から、小林選手のもとには関東の複数の陸上強豪校から勧誘がありました。

しかし、彼女が選んだ進学先は、埼玉県の早稲田大学本庄高等学院。

全国レベルの駅伝常連校というよりは、早稲田大学への進学を視野に入れた文武両道を重んじる進学校です。

この選択には、競技者としてのキャリアだけでなく、その先の人生も見据える彼女のクレバーな視点がうかがえます。

陸上だけに没頭するのではなく、学業との両立の中で競技を続ける道を選んだことが、結果的に視野を広げ、大学でのユニークなキャリアへと繋がっていきました。

2度の大きな怪我との戦い

希望を胸に入学した高校の陸上部で、彼女を待っていたのは過酷な現実でした。

高校3年間で、彼女は実に2度もの大きな怪我に見舞われます。

思うように練習が積めず、レースからも遠ざかる日々。

心身ともに苦しい状況の中で、中学3年生の時に出した3000mの自己ベストを、ついに一度も更新することができませんでした。

周囲の選手が次々と記録を伸ばしていく中、自身のタイムが停滞するもどかしさは、計り知れないものがあったでしょう。

全国大会への出場も叶わず、選手としてはまさに「冬の時代」を過ごすことになったのです。

それでも走り続けた「楽しむ心」

記録が出ない、怪我に泣かされる。

そんな苦しい状況でも、彼女が陸上を辞めることはありませんでした。

その原動力となったのが、純粋に「走ることが好き」というシンプルな気持ちです。

勝つことや記録を出すことだけが全てじゃない。仲間と走り、汗を流すことそのものに喜びを見出していました。

この高校時代の経験があったからこそ、彼女は結果に一喜憂するのではなく、陸上というスポーツそのものを愛する心を育むことができたのです。

この「楽しむ心」という不屈の精神的支柱が、大学時代に市民ランナーとして再スタートを切り、誰も予想しなかった飛躍を遂げるための、最も重要な礎となりました。

 

▽スポンサーリンク



大学で覚醒!市民ランナーから日本トップレベルへの飛躍

高校時代、怪我と記録の伸び悩みに苦しんだ小林香菜選手。

彼女の才能が再び、そして爆発的に開花したのが早稲田大学時代でした。

しかしその舞台は、箱根駅伝などで知られる名門「競走部」ではありません。

なんと彼女が選んだのは、競技としての陸上から一度距離を置いた「陸上サークル」という、極めて異例の道だったのです!

この大学時代のユニークな選択が、彼女を市民ランナーとして覚醒させ、ついには日の丸を背負うトップアスリートへと押し上げる原動力となりました。

彼女の大学時代を特徴づける大きな決断と、そこからの驚くべき飛躍を見ていきましょう。

なぜ強豪・早稲田大学競走部に入らなかったのか?

早稲田大学に進学した彼女には、当然、強豪である競走部で競技を続けるという選択肢もありました。

しかし、彼女は自らその道を選びませんでした。

高校時代の怪我の経験から、勝利至上主義の厳しい環境で再び自分を追い詰めるのではなく、自分のペースで純粋に走ることを楽しみたいと考えたのです。

エリート街道から自ら外れるこの決断は、彼女が陸上競技と長く、深く付き合っていくために必要不可欠な選択でした。

この選択こそが、誰にも真似できない「小林香菜だけの道」を切り拓く第一歩となったのです。

陸上サークル「早稲田大学ホノルルマラソン完走会」での出会い

彼女が新たな活動の場として選んだのは、「早稲田大学ホノルルマラソン完走会」という陸上サークルでした。

このサークルは、その名の通りホノルルマラソンをみんなで完走することを目標の一つに掲げる、楽しむことを第一とした集まりです。

競走部のような厳しい上下関係や練習ノルマはなく、仲間たちと語らいながら、心地よいペースで走る。

勝敗や記録へのプレッシャーから解放されたこの環境が、彼女に陸上競技の原点である「走る喜び」を再発見させてくれました。

心から走ることを楽しむ中で、小林選手の眠っていたポテンシャルが、少しずつ、しかし確実に目を覚まし始めていったのです。

市民ランナーとして自己ベストを驚異的に更新

サークル活動で走る楽しさを取り戻した小林選手は、個人で市民ランナーとして様々な大会にエントリーするようになります。

すると、高校時代にはあれほど停滞していた記録が、嘘のように伸び始めました。

特にハーフマラソンでは、大学4年間で自己ベストを10分以上も短縮するという驚異的な成長を遂げます。

プレッシャーのない環境で楽しみながら自己を探求した結果、彼女は誰にも強制されることなく、自らの力で飛躍的な成長を遂げたのです。

この市民ランナーとしての成功体験が大きな自信となり、「もっと高いレベルで挑戦したい」「世界で戦いたい」という新たな夢を彼女に抱かせました。

そしてこの想いが、大学卒業後、大塚製薬の門を自ら叩くという、あの驚くべき行動へと繋がっていくのです。

小林香菜選手のプロフィールと経歴

ここまでご紹介してきた小林香菜選手のドラマチックな陸上人生!
そのユニークなプロフィールと経歴を、わかりやすくテーブルにまとめてみました。これを見れば、彼女の歩みが一目瞭然です。

名前 小林 香菜(こばやし かな)
生年月日 1999年5月17日
出身地 群馬県前橋市
所属 大塚製薬 陸上競技部
出身校 前橋市立第三中学校 → 早稲田大学本庄高等学院 → 早稲田大学法学部
主な成績・自己ベスト 2025 大阪国際女子マラソン 2位(2:21:19)
2024 防府読売マラソン 優勝(2:24:59)
自己ベスト(マラソン): 2時間21分19秒 ※日本歴代10位
自己ベスト(ハーフ): 1時間09分09秒

▽スポンサーリンク



【まとめ】小林香菜の歩みから見る、夢を叶える力

ここまで、世界陸上2025での活躍が期待される小林香菜選手の、異色のキャリアを紐解いてきました。

彼女の歩みを振り返ると、その道のりが決して平坦ではなかったことがわかります。

年代 主な出来事
中学時代 陸上を始め、すぐに才能を開花させ全国大会へ出場
高校時代 度重なる怪我に苦しみ、記録が伸び悩む試練の時期を経験
大学時代 サークルで走る楽しさを再発見し、市民ランナーとして急成長
大学卒業後 自らの行動で大塚製薬の門を叩き、トップ選手の道へ

中学で輝かしい成績を収めるも、高校では怪我で挫折。

大学ではエリートコースを外れ、陸上サークルで再出発し、市民ランナーとして才能を覚醒させる。

そして、大学卒業後に自らの熱意で名門・大塚製薬への道を切り拓きました。

小林香菜選手の物語は、トップへの道は決して一つではないということを、私たちに力強く教えてくれます。

どんな逆境にあっても「好き」という気持ちを失わず、自ら考えて行動すれば、道は拓けるのです。

そのユニークな経験のすべてが、彼女の走りの強さとしなやかさを形作っています。

挫折を知るからこそ、彼女は誰よりも走れる喜びを感じているはずです。

2025年、東京の舞台で世界に挑む小林香菜選手。

常識にとらわれない彼女のシンデレラストーリーは、まだ始まったばかりです。その走りを、ぜひ一緒に応援しましょう!

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



Pocket